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Archive for 9月 2015

今夜のビール – KIRIN 限定醸造 一番搾り「小麦のうまみ」

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最近、国産のビールがうまい。各社競って美味しいビールを開発してくれている。これもその一本で、なかなか美味しかった。基本的には日本風だが、香が深くコクがある。しかし残念なのが「限定醸造」というところで、美味しいのだがまた飲みたいと思っても、いつまで手に入るかわからないところだ。

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製造は麒麟麦酒株式会社。缶の記載は漢字で、正式な社名はカタカナではなく漢字なのだろうか。

Written by Yoshio Matsumoto

2015年9月24日 at 12:11 AM

カテゴリー: ビール

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今夜のビール – PAULANER Salvator 瓶入り 330ml

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これは印象的なビールだ。「ガツン」とくる味だ。ドイツビールだが、今までに飲んだドイツビールとは明らかに印象が違う。数値面ではっきりとわかるのは、アルコール度数が7.9%という高い値であることだ。そして色。まるで煮出しすぎた麦茶のような濃い色をしている。そして味。「ドイツビール」と言われずに飲めばベルギービールだと思うだろう。こくがある深い味。甘い。そして何よりも香が高い。アルコール度が高いのでちびちびと味わうのだが、ふと、いま俺はスコッチウィスキーを飲んでいるのではないか、という錯覚を感じた。そんな芳香がある。

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ドイツビールを飲んでも新鮮味を感じないことが多い。それは俺の考えでは、日本のビール醸造技術はドイツのものを真似たのでドイツビールは日本の一般的なビールに似ているからだ、というものだが、さて、どうなのだろう。もちろん俺の持論は、「酒」とよばれる世界に数あるアルコール飲料の中で、ビールが最もバリエーションを多く持っているものだ、というものなので改めて驚くほどでない。そして一般的に暑い地方のビールは薄味で、寒い地方のビールは濃厚であることがわかっている。ドイツも地方によって気候や生活習慣、歴史が違うのだろうから、このようなビールもあるのだろう。

さて、このビールを日本で輸入代理している会社のWebページには、このような説明がある。「サルバトールは元々バイエルンでキリスト教の断食期間中に栄養を摂るために修道士たちが醸造した、麦芽エキス濃度・アルコールの高いボックビールです。通常のビールよりも麦芽エキスが濃く、ロースト麦芽の甘みが強く芳醇・濃厚です。ホップは控えめで麦芽風味が強いです。アルコール度数が高く、しっかりとした味わいなので、秋から春先にかけて飲むのがお勧めです。」これによると修道士が醸造したとのことであり、ドイツは西側でベルギーと接している。ただバイエルン地方はドイツの東南あたりに位置しており、チェコやオーストリアの影響を受けていそうである。こんなふうにビールの味から文化を考えるのも楽しい。

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ドイツビールをもっと飲んでみたい気持ちにさせられるビールだった。ドイツに行きたくなってきた。

Written by Yoshio Matsumoto

2015年9月23日 at 6:40 PM

インターネットは「知の戦国時代」の到来

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インターネットが本格的に普及する頃から、これは「知の戦国時代」が到来するだろう、と予感していたが、まさに今、そうなりつつある。

織田信長はもともと大名家の出身で、室町幕府を滅ぼして天下を統一したが、その家臣で後に政権を掌握する豊臣秀吉は、はっきりしてはいないようだが足軽、または農民の出身であったらしい。「戦国時代」という比喩は、その氏素性にかかわらず実力のある者が実権を勝ち取っていく時代、という意味で使っている。

インターネットの普及以前は、「知」というものは一定の専門家や組織が発するものであって、多くの者はそれを受け取るだけだった。「知」を発信するのは、たとえば特定の分野について継続的に研究する「学者」や「研究者」、職業生活や人生の中で得たものをまとめる「経験者」、事件や事故、社会情勢などを調べてまとめる「報道者」、などだ。ちなみに近年は「タレント」がやたらに情報発信しているように思うが、これは「知」の分類には含めないので考慮しない。

もちろん民主主義の社会であるから、インターネットの普及以前でも発信された「知」に対して異論を唱えたり、反論することはできなくはない。しかしそれには自ら学者になって長年研究を続けて論文を発表するとか、職業生活の中で実践して正しさを証明するとか、あるいは同じ考えの人間を集めて組織し行動をおこすなど、たいへん面倒なことだった。しかしインターネットの普及により、誰もが自分の「知」を学者や研究者、経験者と同じように発表できるようになった。うまくやれば「マスコミ」と同じほど、場合によってはそれ以上に影響力を持つ情報発信ができる時代になった。

さらに最近は、発信された情報に対して、誰もがリアルタイムで批判できるシステムが成熟しつつある。たとえばFacebookやtwitterでは、公開された情報に対してコメントを付ければ、それが集約されて閲覧できるようになる。また記事の公開システム自体にコメントを受け付けたりFacebookのコメントを集約して表示する機能がある。そこでは専門家の投稿記事に対して、素人が(そう見えるだけかもしれないが)正面から批判したりしている。

これは直感的なものだが、ある記事に対して多くの素人が(そう見えるだけかもしれないが)コメントをしている場というものは、賛同か批判かのどちらかに偏っているように思える。それは単に記事を書いた人にインターネット上のファンが多いからかも知れないし、元の記事の質が悪いために批判が多いのかもしれないし、あるいは「その通りだ」と思った人は腑に落ちるだけでコメントする動機にならないからかもしれない。野次馬や付和雷同だけかもしれない。

誰もが自由に意見を発表し、多くの人に傾聴されることは、もちろん悪いはずがない。しかし「知」というものは、その背後に幅広い知識や視野、経験の裏付けがあってこそ真の価値がある。よく目につくのは政治家の発言に対しての批判だが、本当に国際政治を理解して発言している素人(そう見えるだけかもしれないが)がどれほどいるのだろうと思う。これまでの一方通行だった情報発信の時代に終止符を打ち、だれもが情報発信でき「知」が短期間で洗練されることをインターネットは実現したが、その負の面も意識しておかなければならない時代になった。

戦国時代、戦で功績をあげた者が必ずしも優れた統治者になれるとは限らないように、素人(そう見えるだけかもしれないが)が専門家に対してリアルタイムに臆することなく批判を投げかけることができる現在の「知の戦国時代」も、いずれは「安土桃山時代」から「江戸時代」に至るように、一定の安定した統治時代に至るのだろうか。それは誰にもわからない。それが良いことなのか悪いことなのかも。

補足:ちなみにbingで「知の戦国時代」と検索しても現時点でヒットしないので、この言葉はインターネット上でこのページが発祥となるだろうと期待している。

Written by Yoshio Matsumoto

2015年9月3日 at 10:39 AM

カテゴリー: 雑感, 情報教育

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